1公淵池(きんぶちいけ)

公淵池について

これまで、両植田(西植田、東植田)の水域には三か所のため池を持っていましたが、年々増加する新田と5、6年に一度の割で襲ってくる干ばつの被害を防ぐためには、なお十分とはいえず、更に東植田の地に新池を築き上げました。

池の名前については、昔この地に淵があり平家の公家が身を投じたという話にちなんで名付けられたと伝えられています。

工事は、文久2年(1862)4月に着工しましたが、当時は幕末の混乱期にあり工事の面でも、資金の面でもいろいろ障害があったにもかかわらず、高松藩最後の藩普請として異常なまでの熱意で築造されました。

完成は翌文久3年(1863)の9月で、四箇池のうち第四番目の池として誕生しました。当時の池は現在も減水時に見える中堤の堤防までの池でありましたが、その後昭和5年(1930)12月から昭和8年(1933)3月までの4年余をかけて県営工事として現在の公淵池が誕生しました。

この堤は水利組合の人たちの労力で成し遂げられました。当時はその時期の歌に合わせて杵を突き足で踏み固める「千本突き」で造られたもので、この「千本突き」に参加した婦女子は皆んな赤いたすきに赤い腰巻、揃いの衣装で音頭取りの歌に合わせて突いたものでしたが、その風情は県内屈指の高い堤と共に近代的なユルの構造や余水吐のアーチ型の石組などが付近の景色に映えて、大変美しく見えて行き交う人々の目を引いたそうです。

 

   

満々と青い水を貯める公淵池

冬に公淵池より東方の嶽山を望む

 

公淵池の堰結(せきけつ)と配水舎

高い堤の上にある、公淵池の水が配水舎のユルを開けると長い導水路から勢いよく水が流れ落ちて、この堰結にたまり、ここから二股(東植田方面と十川方面)に分かれて流れるようになっています。私たちが子供の頃はよくこの中で水遊びをしたものです。導水路の中を上に登って行くとコウモリがたくさんいたのを覚えています。配水舎は底ユルから垂直に六段階に分かれていて、水量を調節しながら適切に配水することができる装置が設置されています。

西洋の彫刻を思わせるような、美しいデザインが施されている建物です。

近代的なデザインと機能が取り入れられた、堰結と配水舎

 

現地投稿写真