2石碑(せきひ)

石碑と神社について

石碑は三本建てられていますが、一番大きいのが西植田町の村尾文一氏の文章による、「公淵池修築碑」です。これは氏の豊かな学識をもって漢文で書かれたもので非常に難解でしたが、関係者のご意見も聞きながらわかり易く解釈すると、その内容につきましては下記のように解説できますので参考にしていただきたいと思います。

近くにある、「公渕池改修記念碑」と「四箇池用水完成記念碑」は現代文で書かれているので容易に解読することができます。

隣りに鎮座する神社は、公淵神社と呼ばれています。創設(勧請)されたのは文久2年(1862)といわれることから、公淵池の築造が始まった年に当たるので何か関係があるのかも知れません。水の守護神であり、雨水または香川用水すべての水を司るものです。農業国である我国では古来より崇敬されています。

  

公淵池修築碑

 

公渕池改修記念碑

 

  

公淵神社 

 

四箇池導水路完成記念碑

 

  

公渕池の立て看板

 

公淵池修築碑の原文

 

「公淵池修築碑」の解説


母なる川やため池の水が大切なことについては、古い時代から多くの聖人が説いてきている。讃岐の土地は南は阿讃の峰、北は瀬戸内海に至るが、川は狭く雨降ればたちまち溢れ晴れればたちまち枯れてしまう。それだから、池を築き水を溜めて灌漑に備えなければならない。  

神内池、城池、松尾池、公淵池を合わせて四箇池という。通水は便利に経済的にできており春日川沿岸九町村に及んでいる。 神内池、城池の築造は寛永年間で寛文年間の築造は松尾池である。この公淵池など四池の水量は六十万立坪であるが、人口日増しに増え墾田年々多くなり配水区域千四百七十五町におよび、ようやく水量の乏しきを憂うようになった。  

明治四十二年普通水利組合を設け、神内上池を造り十万立坪の増加をみたが、神内池、城池は土砂の流入多く年々貯水量の減少をみた、また幹線水路は曲がりくねっており春日川の河原は浸透多く配水が困難だった。そのため川島以北はしばしば干害をこうむった。  

組合は早くから公淵池を修築し水路の改修を議会へ請願し続けた結果、県もその事情を察し請願を受け入れ、昭和五年十二月工事を着工し十年三月に完成しました。  公淵池の面積二十六町水量三十一万立坪、堤高八十六尺長さ四百七十尺、隧道の長さ四百三尺、水深五十四尺あった。これを旧積に比べると十一町、増量は十九万立坪となる。  水路の起点は西植田大亀、終点は上田井大灘で延長二千九百九十四間、伏流三ヶ所補修水路三百九十六間、公淵池より青木暗渠に至るまでを幹線水路とし、この区間はことごとくコンクリート造りとして堅牢に仕上げた。  

要した経費は、国庫補助金十七万二千円、県費一万九千円、組合員負担金、十五万五千円だった。労力に要した人夫は二十九万七千人にも及んでいる。  

振り返ってみると工事を起こして以来五ケ年、県の係官などの監督指導により工事は順調に進行した。殊に組合常設委員安藤留太郎氏の工事に尽くした功績が多大であった。  

池の水は清く澄んで美しく、流れは速く走り完全に灌漑の効果を上げている。 組合の福祉増進というべきか、組合の職にある私に概略を記せとのことで筆を執ったのである。

     昭和十一年三月        村尾 文一 撰    

 

漢詩の意味


公淵池を修繕して言うことには あの南山の麓に
ゆったりと流れる水を 新たな人工の池に引き入れると
池の水は生き生きと あますことなく流れ
下流にある堰や川や田園に ひとしく灌がれて 
農業は初めて平穏に安定し もはや憂うことなく
永遠の利益とその水は その地に永久の実りをもたらす

現地投稿写真