26城池(じょういけ)

四箇池について

讃岐の国は太古讃岐の国は太古の昔から、山地が低く瀬戸内に面しているため気候温暖で自然災害も少ない安住の地として多くの人達が住んでいました。

しかし高い山や長い川がなく水量も少ない為、干ばつによる被害がたびたびおこりました。この水不足を解消するため多くのため池が造られました。現在、香川県下で16,000ヶ所にも及んでいます。

私たちの住む高松市南部にも四箇池と呼ばれている大きなため池があります。

この四箇池とは、江戸期の藩政時代から築造された神内池、松尾池、城池、公淵池の四ヶ所のため池の総称ですが、その後、大正2年(1913)に神内上池が築かれ、更に、昭和37年(1962)には公淵池支流の坂瀬池を吸収して、いまでは六ヶ所の池になっていますが、依然として四箇池という通称のままで呼ばれています。

池   名

神内上

神内池

松尾池

城 池

公淵池

坂瀬池

所 在 地

西植田

西植田

西植田

東植田

東植田

池 田

池の規模

堤長m

130.0

249.0

422.6

190.0

260.0

468.0

堤高m

 29.7

 15.2

 18.7

 16.5

 27.8

  8.5

面積ha

 15.2

 35.4

23.5

 19.0

 26.0

 18.6

貯水量

72.8

116.0

132.2

 72.0

176.0

 34.2

かんがい面積

(ヘクタール)

1123.5

西植田町、東植田町、池田町、川島東町、川島本町、由良町、十川西町、十川東町、亀田南町、小村町、下田井町、元山町、六条町、亀田町、東山崎町、前田西町、春日町、木太町

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これらのため池は、江戸時代讃岐の領主であった生駒、松平家により長い年月をかけて築造されたもので、春日川水系の1,100ha余の土地を潤しているばかりでなく、高松市民にとってはかけがいのない上水道の水源となって私たちの生活に役立っています。  

徳川幕藩体制が固まってくると、人口も増加し農地を開拓してコメの増産を図るようになり、水を確保する必要からため池の築造が盛んになってきました。

この目的をもって寛永5年(1628)に生駒家第4代藩主高俊は、伊勢津藩の西嶋八兵衛を招き県下に満濃池をはじめ多くのため池を築造させました。

四箇池築造の歴史については、水をめぐる争いの汗と涙の物語がたくさん残っています。現代人は今一度、先人たちの水との厳しい闘いの歴史を振り返ると共に、水の大切さと水への感謝の気持ちを忘れることなく次の世代へ引き継ぐ責務を担っているように思います。

 

城池について

神内池完成のわずか10年後にあたる正保2年(1645)には、讃岐国内はまたまた寛永3年のそれにも劣らない大干ばつに見舞われ、早くも用水の不足を見るにいたりました。

当時讃岐の領主は生駒家から松平家になり、高松藩12万石の大名でした。早速その対策として、藩主松平頼重は矢延兵六に命じて領内に406ヶのため池を築かせました。その一つとして城池が築かれたのです。四箇池掛りとしては二番目にできたため池でした。

城池は、近くの朝倉川をせき止めて作られたもので、大干ばつの翌年正保3年(1646)10月18日に工事に着手し、翌年3月10日に完成しました。

水源の朝倉川の近くに、戦国時代からの植田美濃守の居城があったことから城池と命名されました。

  

二子山、城山を背景にした美しい城池

 

築造の歴史を記した表示板

 

現地投稿写真