38熊野神社(くまのじんじゃ)

熊野神社について

菅沢町の氏神様である熊野神社は、菅沢熊野氏の元祖、十四世菅沢主水存常が武運長久、五穀豊穣を祈って六百年も昔に紀州熊野から熊野三所権現をお迎えして祀り始めたものといわれています。その時一緒に持って帰った赤樫(アカガシ)の木が境内で大木に育っています。

由緒記によると、貞治五年(一三六六)八月九日の創祀にして菅沢の産土神です。天正年中(一五七三~九二)兵火にかかり炎上しましたが、寛永三年(一六二六)九月に再建しました。その後、寛文七年(一六六七)、天和四年(一六八四)、元禄三年(一六九〇)と修営を行い、明治八年(一八七五)五月本殿屋根葺き替えをしました。

昭和三年(一九二八)十一月本殿を改築し、同時に幣殿上拝殿を修理した、とあります。その後も菅沢家から熊野家に引き継がれて大切に守ってきました。

現在は第二十五代神主として、熊野正様がお世話をされています。
 

境内には、

①戦国時代の悲しい伝説の“耳塚”
②生駒高俊(いこまたかとし)公より拝領の“馬具”
③大木に育った“赤樫(アカガシ)”(高松市の名木指定)
④奉納された“絵馬”
⑤かつては集落内にあった、“金比羅灯篭”、”船渡神社”もここに移設されています。

 

①耳塚について

豊臣秀吉は、天正十三年(一五八五)九州豊後の大友義統(おおともよしむね)に筑前など四ヶ国を守らせていましたが、島津義久(しまづよしひさ)が薩摩で兵を挙げて、豊後筑前を攻撃して来ました。豊臣秀吉は、四国の諸将に対し大友義統に加勢するよう命を下しました。十河城主の十河存保(そごうまさやす)は、五百余人の兵を率いて豊後府内に向かって進軍しました。十河軍には菅沢内膳義景、友成父子もおり、他に仙石権兵衛久秀、長宗我部元親、盛親父子も参戦しました。

耳塚

十河軍は力を合わせて島津義久の大軍を戸次川の川向うへ敗退させました。

ここで退却すれば良かったのに、仙石権兵衛久秀は全軍に追撃を命じました。
この作戦が拙くことごとく大敗してしまいました。
この戦いで讃岐の将兵は殆ど討ち死にし、十河存保や菅沢義景も戦死しました。

この時、菅沢義景の長子義長は素早く父親の髪と両耳を小刀で切り落とし、戦場から持ち帰り、父親の供養として菅沢熊野神社の境内に耳などを埋めて塚を建立しました。これを人々は「耳塚」と呼ぶようになりました。 

 

 

②生駒高俊(いこまたかとし)公より拝領の馬具について

菅沢官兵衛義長は、豊臣秀吉の家臣仙石権兵衛秀久(せんごくごんべえひでひさ)に仕えていました。その後、高松藩四代目藩主生駒高俊公に仕えて禄高三百六十石を与えられました。義長の長子、菅沢甚兵衛義茂は父親の家禄を継ぎ、藩主生駒高俊公の弓術師範として仕えていました。

寛永十五年(一六三八)正月、生駒高俊公は江戸家老前野助左衛門を連れて高松へ帰国しました。正月十五日に義茂は呼び出され、藩主より平素の忠勤に対して禄を百石加増され馬まで拝領しました。

その後、藩主生駒家は生駒騒動により讃岐の土地と城は召し上げられ、出羽の国矢島に一万石で国替えになり没落しました。菅沢甚兵衛義茂も禄高を失い浪人の身となってしまいました。藩主より拝領の馬具は、菅沢熊野神社の宝物として三百七十年間大切に保管されています。

   

拝領の鞍(馬具)

拝領の鞍(馬具)

 

馬の墓


なお、拝領の馬は死亡して「大石」という地名の
付近に埋められて、自然石の墓を建てたと伝えられ
ていました。現在は熊野義一さんの墓地に移設されています。

 

③大木に育った“赤(アカガシ)

熊野三所権現をお迎えして祀り始め、その時一緒に持って帰った赤樫(アカガシ)の木が境内で大木に育っています。

赤樫(アカガシ)(高松市の名木指定)

 

④奉納された“絵馬”

 熊野神社の拝殿に明治十一年(一八七八)三月吉日と記した、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の勇将たちの絵馬が、武運長久、五穀豊穣と村民の無病息災延命を祈願して奉納されています。

 

賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の絵馬

現在は絵馬の色が落ち、赤黒くなって人物がはっきりせずよくわかりませんが、ある画家の話では「画家の名前が消えてよくわからないが、この絵馬は立派な作品です」と言っておられました。絵馬の絵は画家が屏風絵を見てこれを参考にして描いたものと思われます。

この絵馬とよく似た絵馬が、岐阜市立博物館、滋賀県の長浜城歴史博物館と大阪城天守閣にもあります。

 

 

 

 

 

⑤“金比羅灯篭”は以前、集落内の阿弥陀堂付近にあったが、道路拡張に伴ってその場所から熊野神社の境内に移されています。

   

金比羅灯篭

船渡神社

現地投稿写真