43薬師堂(やくしどう)
薬師堂について
堂宇は薬師山に鎮座しています。ご本尊は薬師如来ですが、阿弥陀如来と弘法大師像も一緒に祀られています。
戦国時代に土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、四国を統一しようとして天正十年(一五八二)に香川親和(ちかかず)(元親の次男)を擁して二万余の大軍で十河城を攻め、その余力で津柳、内場、岩部、朝倉、植田城などを次々に落城させました。
この戦いで多くの寺社、寺院は焼失しました。この菅沢の薬師堂も土佐軍によって焼かれました。この時、住民は大切なお薬師さんを焼かれてはと思い、畑の中に埋めてお守りしました。やがて天正十三年(一五八五)三月、豊臣秀吉の四国征伐で長宗我部元親は降伏しました。
世の中は平和になり、住民も元の平穏な暮らしができるようになりました。この頃、薬師山の山麓の田畑で夜な夜な美女が現れてつきまとうようになり、住民は気味悪くなって恐れていました。
ある夜、村人が田の水を引くため通った時美女が現れたので、狸かキツネの化け物かと思い鍬で打ちのめしました。すると「ガーン」という大きな音がして、
四国霊場八十八カ所石仏像の 由来と伝承の碑 |
そこには美女の姿はなく薬師如来の石造がありました。
それから毎夜、怪しい火の玉のような光が出るようになりました。
これは薬師如来様の祟りだと住民は話し合って、薬師山に堂宇を建て安置しました。
すると、それからは元の平和な山里になったそうです。
ひざかけ薬師如来 |
薬師如来の膝のあたりのある傷は、その時のものと言われています。
(このお話は菅沢町に残っている有名な昔話として語り継がれています。)
写し霊場八十八カ所霊場について
開基は慶応二年(一八六六)で、今から百五十二年前にお祀りされたと伝えられています。発起人は地元の菅沢勝五郎、熊野甚平、熊野清三郎などで、近隣の志ある人にお願いして霊場を建立したと言われています。
石仏は薬師山を一回りして、最後に表参道に沿って祀られ、頂上の薬師堂に最も近い所に結願の寺、第八十八番医王山大窪寺が祀られています。
石仏 |
弘法大師 薬師如来 阿弥陀如来 |
ご本尊は薬師如来で、左手に薬壺の代わ りに法螺貝(ほらがい)を持っており、その法螺貝で厄難諸病を吹き払うと言われています。 大窪寺は、早くから女性の入山が許され、 女人高野とも呼ばれていました。
写し霊場八十八カ所霊場の施主について
菅沢町の写し霊場で注目されるのは、石仏を建てた人が広範囲に広がっているということです。調査によると、北は岡山県から南は徳島県にまたがり、香川県内でも遠く塩飽諸島(しわくしょとう)の方の名前が刻まれています。
それらをまとめてみますと次のようになります。
①備州瑜伽山(びしゅうゆかざん)
瑜伽山は岡山県の児島にあり、大阪方面から金毘羅参りをする人が必ず立ち寄った霊場です。
十二番の焼山寺の石仏に瑜伽山の僧の名前が刻まれています。
児島地方は綿織物業が盛んで菅沢との交流があったのかもしれません。
②塩飽広島
四十一番龍光寺の石仏に塩飽広島の最勝院の名前が刻まれています。「為菩提」とありますから、
父母の菩提の為に建てたのでしょう。
③豊島家浦
四十八番西林寺の石仏に豊島家浦の「宇吉」なる石工の名前が刻まれています。
④徳島県
吉野川に面した高越山の麓からたくさんの施主が出ています。九番法輪寺、三十七番岩本寺、
五十四番延命寺、五十六番泰山寺、五十九番国分寺、七十七番道隆寺の石仏に名前が刻まれています。
⑤徳島祖谷
七十九番高照院の石仏には、祖谷山集福寺の名前が刻まれています。
菅沢の人が塩飽の海や祖谷の山とどんな関係を結んでいたのでしょうか。
⑥香川県内で菅沢以外
二十九番国分寺の石仏には林村、五十七番栄福寺の石仏には石田村、一番霊山寺、
四番大日寺には三木町奥山村、また六番安楽寺、四十三番明石寺、七十五番善通寺、
八十八番大窪寺には三木町小箕村の人の名前が刻まれています。
⑦近くの村からの石仏
十九番立江寺、八十三番一宮寺、八十四番屋島寺の石仏には川内原村の竹添清五郎の名前が刻まれています。
十八番恩山寺、四十番観自在寺、六十一番香園寺の石仏には東谷の、十四番常楽寺、
十七番井戸寺の石仏には下谷の人の名前が刻まれています。
二十一番太龍寺の石仏には岩部の、十三番大日寺、二十八番大日寺、四十四番大寶寺、五十五番南光坊、
七十六番金倉寺の石仏には安原村小田の、四十九番浄土寺の石仏には安原村生山の人の名前が刻まれています。
⑧菅沢の人達による建立
三十番善楽寺、三十一番竹林寺には菅沢の人の名前が刻まれています。二十五番津照寺、四十五番岩屋寺の石仏には菅沢氏の名前があります。これらの人たちは、おそらく遠くの方にも出かけて行って造立を勧めたのではないでしょうか。しかし、そのほとんどが村以外の人たちの造立だということがわかり、ご苦労の程が偲ばれます。
⑨女性による造立
県内各地の写し霊場で、女の人が施主になっている例は多く見られます。菅沢でも例外ではありません。
解るだけでも全部で十六体あります。
その中でも熊野百次良の奥様は、自分自身が六十六番と六十八番、六十九番の三体を建てているほか、
娘二人にも七十番と七十四番を建てていることがわかります。
これは女性の信仰心の厚さと見ていいのではないでしょうか。
また、女性が家事などで忙しく、本物の四国八十八ヶ所霊場巡りの旅に出にくかったという事情もあると思います。