5杣尾について(そまおについて)
杣尾(そまお)について
わたしたちの住むこの地は、今からさかのぼる1230余年前、唐の高僧 鑑真大和上(がんじんだいわじょう)が奈良に渡来の途中、屋島寺の再建を思い立ち、当時ここに住まいしていた寺専属の杣人(そまびと)によって、寺領であった高柿という近在から用材を杣(そま)せた(組み立てや加工)ところから、杣尾(そまお)という地名になった。
この地名の由来が杣尾集会所の大きな額に書かれています。そして往時は高松に通じる街道であって、村の中心地としてたいへん賑わっていたそうです。
杣尾会堂付近について
往時はこの付近が杣尾の中心地でした。多くのお店が立ち並び大変賑わっていたことが想像できます。三味線(しゃみせん)の音が聞こえたり、食べ物のにおいがする坂道の両側には、日用品から風呂屋、質屋、呉服屋、いっぱい飲み屋も並んでいました。水が良質であったせいか、酒造りの店もあったし、酒屋がよく繁昌(はんじょう)していたようです。
竹の船場(せんば)も坂の下にあり、藍壷(あいつぼ)を十箇ほど持った紺屋(こうや)もあり、糸を染める人たちが遠くから来ていました。田中や西植田から持ってくる糸を藍で染めていたことが伝わっています。
当時の様子についておもしろいことが書かれているのでご紹介します。
「剣山参りや石鎚山参りの人が通りかかると、家から出て道で横になる。またいでもらうと夏病みしないという。ホラ貝を吹く音が聞こえてくると急いで道に横たわっていた。人通りの多い四つ辻、四つ街道の真ん中へ病気を伏せてもらうお札(ふだ)を埋めて置くと、それを踏んでくれるので病気が治(なお)るという風習が、当時は流行(はや)っていたようです。」
当時の世相を知ることができる愉快なお話です。
|
現在の杣尾会堂の正面入り口 |
|
羽田與市さんの寄贈記念碑 |