1宝地(ほうじ)
文字とうり、ここには宝物が埋められているという伝説が残っています。 むかし、土佐(高知県)の長宗我部軍(ちょうそかべぐん)が攻めて来た時、城の持ち主は宝物を持っては逃げられないので、土を深く掘って埋めて逃げたというお話があります。 この宝地へ行く道は、迷路の方になっておりなかなか目的地まで行けないので、隠すには都合がよかったのかもしれません。 宝物を隠したところは歌により示されています。 「朝日さす 夕日輝く影のうら・・・・・・白藤のもと」 歌には少し言葉が不足していますが、夢とロマンを抱(いだ)かせるお話です。
2とんぼが峰(とんぼがみね)
とんぼが峰は東植田、田中、十河の村境にあり、むかしは阿波(徳島県)から来る村人の道としてにぎやかでした。 ところがこの峠はさびしいところで、よく追いはぎ(盗賊)が出て旅人をなやませたそうです。 自由自在に出没(しゅつぼつ)して、右に左に動きまわり、まるでとんぼが飛んでいるかのようでした。 こんなことから、とんぼが峰と言われるようになったそうです。
3岩破(いわわれ)
見事に二つに割(わ)れているこの岩には、常識では考えられないおもしろいお話が伝わっています。 むかし、阿波(徳島県)から来たお嫁さんは、生活習慣の違いからお姑(しゅうとめ)さんと意見が合わず、よく言い争いをしていました。 ある日、「包丁が切れない」と言ってこぼしていた嫁の言葉を聞いて、「切れんと言うなら切ってやろうか」とこの大きな岩をまるで大根(だいこん)でも切るようにすぱっと二つに切ったというお話です。
4公淵(きんぶち)
むかし、屋島であった源氏と平家の戦いでやぶれた平家の公達(きんだち)(侍)がこの地まで逃げてきました。 ふと、小さな池の中をのぞいて見ると、多くの友達や姫達がいるではありませんか。 こちらを見て呼んでいるように見えました。 「おおい、今いくぞ」と言って水の中へ飛び込んでしまいました。 一瞬(いっしゅん)月の光がくだけて飛び散り、底なしの淵はふたたび元の静けさにもどりました。 人々はこの淵を公淵と呼ぶようになったそうです。 それから何回も修築されて、今のような大きな池になりました。
5聖郷(ひじりご)
聖郷とは聖人が住んでいたという意味で、むかし、高野山(こうやさん)で修業した尊い方がこの地に移り住み、田を開墾したり橋をかけたりしてくれたので、人々が崇(あが)め尊んでいたという話があります。 この石積みは、その聖人のお墓であると言われています。 別の場所にあったのですが、道路工事の時、杣尾の三昧(さんまい)へ運ばれました。
6袖もぎ(そでもぎ)
むかし、西植田の藤尾神社のご分霊を東植田に受ける時、下司地区のこの場所でご神体を受け取ったそうです。 ご神体は衣の袖(そで)で巻き抱えるようにして来られました。だから、こちら側も衣の袖で巻き抱えて受け取ったとい言われています。 それから、ここを通るときには片袖をもいでお供えしたそうです。 でも何度も袖はあげられないので、木の葉や草花を折ってあげたようですが祠(ほこら)はありません。 この袖もぎということばが、惣天満という地名になったようです。
7ひざかけ薬師(ひざかけやくし)
菅沢町にある、写(うつ)し霊場四国八十八ヶ所の最後の札所大窪寺の山頂に薬師堂があります。 ここの薬師仏(やくしほとけ)の膝の部分が傷して欠けています。 むかし、戦乱で薬師堂が焼けてしまいました。 ところがその焼け跡に美しい女の人が現れるという噂が聞こえてくるようになりました。 ある夜、農家の男が田んぼに立っている女を見つけました。 きっとたぬきの仕業だと思い、持っていた鍬で打ち下ろしたところ ガーンという大きな音がして鍬は壊れてしましました。 見ると女の姿はなく薬師仏がころがっていました。 ところが、それからこの薬師仏が気味悪(きみわる)く光るようになり、不幸も続いたので、...
8耳塚(みみつか)
戦国時代のむかし、この地の武将、菅沢義景(すげざわよしかげ)は息子の義長(よしなが)と共に九州へ出陣しました。 この戦で義景はよく戦ったのですが戦死してしまいました。 この時、義長は父の両耳と髪を切り取って持ち帰り、この地へ葬りました。 今も菅沢の熊野神社の境内近くに残っています。
9苗代谷(なわしろだに)
毎日、雨が降らない、何日も何日も雨雲(あまぐも)一つ現れず、飲み水にさえ不自由するありさまでした。 苗代を作る頃だというのに苗代に引く水がない。 苗代を作らないことには苗が育たない。この分だと田植えもできない。長老たちは、いろいろ考えました。 そして、あの谷のあたりはわずかだが水が湧き出ている。今まで田ではなかったが、あの谷へ苗代を作ろうと決めました。集落の人たちすべてが集まって種籾(たねもみ)をまきました。 苦心の苗はどうにか間に合いました。 それから、この谷を「苗代谷」と呼ぶようになったそうです。